テクノロジーは日々進化しています。翻訳アプリや自動翻訳はとても便利なツールで、私もあまり英語が通じない国を旅行するさいに重宝しています。でも、概ね適切に簡易的に情報交換することと、自分の心からの思いを伝えることは別の次元にあるといつも感じています。
ある言語からある言語へ翻訳するという仕事において、便利で高性能なテクノロジーと共存していく最も有効な方法はなんだろうかといつも考えています。何度考えても、いつも同じ3つの答えに辿り着きます。
母国語で書くように翻訳する。
いちから言葉を創るようにアダプテーションを行う。
場合によっては、原文よりも優れた言葉や文章にしていく。
私は取材や執筆も行います。執筆と翻訳はまったく同じとはいえませんが、どちらにも欠かせないことがひとつあります。
一回読めば分かるように内容が整理され、普通の日本語で書かれていること
こうすると、執筆と翻訳の境目はかなり曖昧、ほとんど無いという気もしています。
どちらにしろ、その困難さにいつも途方に暮れています。楽しんでいる余裕は一切ありません。この仕事が楽しいという同業者を見たり聞いたりすると、「心臓に毛が生えているんだな」とうらやましくなります。ひとつの言葉や表現のちょっとした違いで傷ついたり喜んだり焦ったり怒ったりする人がいるかもしれない。そう思うと、楽しい訳がありません。
でもこの仕事が大好きです。自分がもっともうまくできる仕事だと自負しています。*
「楽しい」と「好き」は似ているようで違います。この仕事が好きですから、ずっと続けます。
好きという気持ちがあれば、楽しさ度の増減はあっても長く続くと思います。
このブログには長々と脈絡なくつらつらと書かないと決めていたのに、掟をやぶって長々と脈絡なくつらつらと書いてしまいました。
*しばらくたってこのブログを読み返して、「でもこの仕事が大好きです」のくだりが気になってきました。なんだか無理して「好き」と言っているようで。「大好き」というより、損得関係なく「無いと困る」という思いに近い。だから「でもこの仕事が無いと私的に非常に困ります。」がちょうどいい。大好きだったり、もう見るのも聞くのも嫌で離れていたいと思うこともあったりします。でも、つきあい方を変えることで気持ちを切り替え、書いたり翻訳したりすることに遅かれ早かれ戻るのですよね。遺伝子(DNA)レベルで必要としているのかもしれません。